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解剖!伝説の名演奏家「幻の指揮者ムラヴィンスキー」旧ソ連時代、半世紀に渡り、世界屈指のオーケストラ、レニングラードフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者として君臨したエフゲー二・ムラヴィンスキー(1903—1988)。
少年期にロシア革命を経験し、芸術家への監視が厳しい社会を生きながら、信じる音楽のためには、どんな圧力にも屈しなかった人物。70年代の初来日まで、「幻」と呼ばれていた巨匠の実像に迫ります!

「鉄壁のアンサンブル」妥協なき指揮者

ムラヴィンスキーは、眼光鋭くわずかな手の動きで100名を越す楽団員をまとめ、一糸乱れぬ「鉄壁のアンサブル」を生み出した。その演奏の秘密はリハーサル。「もう一度」と一つの音を突き詰め、楽団員たちに自分の理想の音を奏でるよう求める。その妥協なき姿勢を他人以上に自らにも課し、自宅では常にスコアの解釈に余念がなかったという。ムラヴィンスキー夫人は「作曲家の意図に入り込み、自分も作品の創造に“参加している"と感じなければいけない。それが『指揮者の使命』と夫は考えていた」と語る。

70年代に4回来日・巨匠の生い立ち

幻の指揮者は70年代に4回来日。その素顔は「厳格な巨匠」ではなく優しく真摯な人柄だった。初来日から15年間、通訳を務めた河島みどりさんは、天ぷらをフォークで食べる巨匠へ「指揮棒は使えるのに」と問うと「指揮棒は1本。箸は2本だから使えない」とユーモアたっぷりに答えた思い出を語る。そんなムラヴィンスキーは、帝政ロシア時代に音楽を愛する貴族の家に生まれた。しかし14才で起きたロシア革命で生活は一変。レニングラード・フィルの指揮者になってからも、旧ソ連体制の厳しい監視と統制の中で生きた。そんな中、訪れた日本。巨匠が厳しい時代を生きた、ふだんとは違う笑顔を見せた瞬間だった。

信じる音楽のために・反骨精神の指揮者

指揮者ムラヴィンスキーの音楽人生に欠かせない人物がいる。世界が誇る大作曲家ドミートリ・ショスタコーヴィチ。彼が作曲した交響曲全15曲の内、7曲の初演をムラヴィンスキーは手がけており、2人の信頼関係は厚いものだった。スターリンの圧政が続く1948年にある事件が起きる。ショスタコーヴィチは、その作品が、「体制にふさわしくない」とソビエト連邦作曲家同盟の特別会議に呼ばれ、自ら否を認めなければ、粛清されてしまう危機に陥ったのだ。この出来事に対し、ムラヴィンスキーは憤る。指揮者生命をかけ、ショスタコーヴィチの作品を演奏会で取り上げ、集まった聴衆を熱狂させた。指揮者の大井剛史さんは「ショスタコーヴィチの音楽を否定してしまったら、自分が信じている音楽を否定されてしまう。それをムラヴィンスキーは音楽家として許せなかったのだろう」と熱く語る。

大井ムラヴィンスキーの演奏は、楽譜に忠実で、ストイックな中から音楽が立ちのぼってくる」
河島「圧力に対し、自由を求めて信じる道をいこうという闘いがあったから、すごい音楽ができたのだと思う」